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三国志【もし周瑜が長生きしていたら?】関羽・張飛を使って天下統一を叫んだ、「周瑜の野望」は実現したか

ここからはじめる! 三国志入門 第118回

■関羽や張飛も率いてみせると豪語した「周瑜の野望」

 

 諸葛亮による、いわゆる「天下三分の計」は有名だが、これと同時期に孫呉では周瑜、魯粛、甘寧(かんねい)ら複数の人物が荊州・益州を併合しての天下取りのプランを描いていたことが正史『三国志』から読み取れる。曹操と「天下二分」しての天下取りというべき大胆な計画だった。

 

 このとき、周瑜にとっての厄介ごとは劉備の存在。それも計算に入れたうえで「劉備は危険なので呉に留め(幽閉して)、わたしが関羽や張飛を手足のように用いたなら、天下統一も成せましょう」と豪語した。なんだか夢みたいだが、これは正史の本文に周瑜本人の言葉として書かれている。

 

 また『呉録』には、周瑜が江陵を攻めたとき、張飛の援軍1000人が加勢したという記述もある。一時的にだが周瑜の指揮下で張飛が戦ったこともあったようだ。周瑜は劉備軍をまるごと取り込むこともできると考えていたのだろう。

 

 しかし、孫権はその意見を採用できなかった。劉備を排除した場合のデメリット……。名声の失墜、関羽張飛の反乱などのケースも想定でき、それを恐れたのかもしれない。しかし周瑜は強気であった。

 

「蜀(益州)を得て張魯(ちょうろ)を併合し、奮威将軍さま(孫瑜/孫権の従兄)にお任せし、馬超と同盟を結びます。その後、襄陽(じょうよう)を拠点に曹操を追いつめてゆけば北方制覇も夢ではござらん」

 

 なおも粘り強く益州出兵の利を説き、ついに孫権の了承をとりつけた。しかし、その出兵の準備中に急逝。享年36。赤壁の戦いから2年後の「孫呉の悲劇」であった。

 

■周瑜自身の負傷と死で、統一戦略は頓挫

 

 やはり、現実はそう上手くは運ばないものだ。周瑜の死因は不明だが、彼は曹操撤退後に荊州南郡の江陵(こうりょう)を攻めたときに負傷しており、それが悪化したものと思われる。江陵を守備する曹仁(そうじん)が思いのほか手ごわく、攻略に1年もかかっていた。その城攻め中、流れ矢を鎖骨に受けたのだ。

 

 周瑜の死の翌年(211年)、劉備は荊州を足がかりに蜀へと攻め入った。3年後、劉備はかの地を手に入れ、天下は三分されて「三国時代」へと進む。周瑜の死で、孫家の天下統一計画は頓挫したと言っていい。

 

 周瑜の地位を引き継いだ魯粛が劉備の懐柔・穏健策をとり、荊州の一部の貸与を孫権に認めさせたことも大きかった。これで劉備の勢力は確立した。天下二分は、あくまで周瑜あっての戦略だったのだ。

 

 仮に、もし周瑜があと5年、長生きしていたらどうであったか。魯粛や呂蒙が江陵から襄陽へ進み、荊州北部を制圧。そして益州方面で馬超と共闘するのは益州出身の甘寧(かんねい)。後詰に陸遜(りくそん)もいるだろう。東からは史実通り、孫権がみずから合肥を脅かす・・・。

周瑜が描いた「天下二分」のビジョンイメージ。南から周瑜、西から馬超・甘寧、東からは孫権が魏領に攻勢をかけての大胆な戦略だったと思われる。地図作成/ミヤイン(中国歴史地図集 第二冊 参照)

■あと5年、長生きしていたら・・・

 

 もしそうなれば、北方の公孫氏はじめ、曹操に対して反乱を起こす勢力もあっただろう。その過程においても、やはり劉備の存在が鍵になったと思われる。劉備をどう扱うかで孫呉が採るべき展開が変わってくるからだ。

 

 ひとつの可能性として考えられるのが、荊州に人脈を持つ諸葛亮や龐統(ほうとう)の力を借りての荊州統治だ。史実において、陣没した周瑜の棺を孫権のもとへ届けたのは龐統だった。彼は人知れず周瑜と交流を結んでいた。もし周瑜が存命していたら、諸葛亮とコンビを組んで彼に力を貸す展開も望めたかもしれない。

 

 周瑜が欲しがっていた関羽・張飛などはどうだろう。もちろん働きが望めれば強力な味方となったであろうが、やはり劉備の命令なくして彼らは従わなかったと思われる。もし劉備と離れさせた場合、関羽が呉軍の背後を突くという、史実と逆の展開もあり得たかもしれない。

 

 妄想は進むばかりだが、確かに周瑜が数年でも存命なら、劉備があれほど順調に南荊州や蜀を得ることもなかったと思われる。その場合、史実のような三国時代の到来はなかった可能性が高い。

 

 呉が天下統一に乗り出したとしても、5年や10年では難しかったであろうが、そうした展開を想像したくなるほど周瑜の存在は大きい。「人を酔わせるような魅力と話術の持ち主」と評された周瑜、間違いなく当代の傑物だった。早世が惜しい。

 

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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